歴史 : 名古屋市 呼続の東海道散歩


この稿では、名古屋市の呼続(よびつぎ)という場所の旧東海道を歩いてみたこと、そしてその土地や関連する人物について調べてみたことを記す。


旅から戻って来てから気づいたのであるが、東海道五十三次の旅の際、宮宿の七里の渡しから笠寺までを歩いていた(2021年)。しかし、このときは単に街道を歩いただけであった。その際のメモでも「堀田をすぎると交通量も少なくなり、山崎橋を渡ると、やっとそれらしい道になった」「特にみるべきものはないままに笠寺地区へたどりついた」と書いていた。

この時は気付かなかったが、この地域の街道沿いの史跡などを辿ると、その歴史の舞台が明らかになっていった。この稿での登場人物は、戸部政直、加藤弥三郎、佐久間信盛、織田信長である。

そのきっかけは、名古屋地下鉄でどこかネタはないかと探していた時、桜本町駅近くに呼続公園があり旧東海道が通っているので行ってみることにした(2021年に歩いたことは全く忘れていた)。公園には「戸部新左衛門政直公の碑」と「旧今川領・旧織田領境界」があった。戸部政直の名前はなじみがなかったが、説明板に書かれていた、偽の書状の件は小説などで読んで知っていたエピソードであった。

戻ってきて色々調べてみた。戸部政直は戸部城主で、wikiで「初め織田氏に従っていたが」「織田信秀の死後は今川義元に寝返った」と説明されていた。戸部城は呼続公園の南に位置していた。そして北方には山崎城があり織田方の城主が今川方と対峙していたようだ。

★戸部城
南区のHPで「昭和4年の耕地整理で削平されたため、現在は痕跡をとどめていません」と説明されているように現状は何もない。城址に戸部政直の碑が建てられていたが、現在は呼続公園に移されている。

★山崎城
南区のHPで「城主は蔵人浄盤、次に加藤弥三郎、最後に佐久間信盛」と説明されている。信盛が1580年に追放され廃城となったようだ。現在、安泰寺となっている。

★加藤弥三郎
wikiで「織田信長に小姓として仕え、永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長が夜明けに急に出陣した際、岩室重休・長谷川橋介・佐脇良之・山口飛騨守と5人で従った」と説明されている。その後、山崎城主になったと思われる。

★戸部政直
wikiで「政直の寝返りに怒った織田信長が、右筆に政直の筆跡を真似て練習させ、信長に内通する書簡を偽造。それを商人に化けさせた森可成に駿府城下へ持ち込ませた。書簡を見て裏切りを信じた義元の命により、政直は三河国吉田で処刑された」「政直は自分の前を横切る者は誰でも切り捨てたが、跳んで逃げる蛙は切ることができなかったという言い伝えがあり、これに因んで戸部の蛙という郷土玩具が作られるようになった」と説明されている。また、呼続公園の説明板では、徳川家康と織田信広の人質交換時に、政直が仲介を行ったと説明されている。

★年魚市潟勝景跡(あゆちがたしょうけい)
街道周辺を調べると勝景跡の碑がある。この辺りは松巨島(まつこじま)という島が存在したようで、年魚市潟(あいちの語源となった)と呼ばれた海を望む勝景の地であったようだ。

色々調べて材料が揃ったので、散歩して、ハガキを出すことにした。名古屋城下、名古屋桜、名古屋呼続の3箇所で風景印を押印するためのハガキの準備を行った。そして、再び桜本町駅で下車し、東海道を笠寺の方へ歩いていった。笠寺の手前に「戸部の蛙」のモニュメントと説明があった。そして笠寺には「徳川家康人質交換記念碑」が建っている。笠寺でひと休みの後、東海道を戻る。そして街道を離れて名古屋城下郵便局でハガキを出して街道に戻る。その後、名古屋桜郵便局でもハガキを出して再び東海道へ戻る。鎌倉街道と示された小道を行くと、白毫寺に至り、年魚市潟勝景跡の碑を確認。結構大きな碑であるが、周りは木々が生い茂っており、周囲は全く見えない。説明板によると万葉の頃から歌枕として有名な地であったようだ。東海道へ戻る。熊野三社の入口に宿駅制度制定四百年記念碑があり、松巨島などが説明されていた。また熊野三社の説明板には「永禄年間山崎城主佐久間信盛が城中の守護神として祀り」と書かれていた。山崎城址の安泰寺にも行ってみたが遺構や説明の類はなかった。それでも城址らしき地形は確認できた。その後、東海道は山﨑の長坂を下っていく。以前歩いた時はただ坂を下っただけであったが、今回、松巨島という地形を意識しながら坂を下っていった。そして、名古屋呼続郵便局でもハガキを出した。

昼になったので、何か食べたい。近くに三河屋という味噌カツの店があったので行ってみた。昼過ぎで混んでいたが席があった。味噌カツ定食(1280円)とビールにした。大瓶であった。そしてカツのボリュームも良かった。今時、ビールの大瓶で 680円も安いと感じた。


「国盗り物語」では、桶狭間への信長の出陣を「『つづけえっ』と叫ぶなり、玄関を出」~「あとに従う者は小姓の七、八騎しかない」と書かれているが(P245)、その小姓の一人が、加藤弥三郎であったのだろう。

「街道をゆく 濃尾三州記」では、「熱田から桶狭間へは、本来ならば笠寺や丸根、大高を経る」が信長はそのルートは取らず山寄の古鳴海を進軍したと書かれている(P20)。また、偽の書状の件では「日下部政直」のこととして書かれていた(P14)。日下部政直で検索してもwikiなど出てこないが、ブリタニカ事典の「今川義元」の説明では「義元は織田氏の策謀によって賢臣の日下部政直を殺害した」と説明されているようで、戸部政直はある資料では日下部政直と記載されていて、司馬遼太郎はその資料を元としたのだろう。「街道をゆく」では「野史」が出典元であることが記されている。



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